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海を渡ればいよいよモロッコ。日本を出てほぼ1か月、長かった。
スペイン南の玄関口、アルヘシラスの海岸通りには旅行代理店や電話センターなどが並び、野暮ったいデザインの看板にはアラビア語も書かれている。アラブ系やアフリカ系の人が多い。海沿いを歩いていると、もうヨーロッパを出てしまった錯覚におそわれる。 この町の構造はわかりやすい。神戸をずっとずっと縮小したみたいに、港を前にして町が丘の方に広がっている。海側は市場を中心にして、移民や外国人の姿の多い、やや猥雑な下町。 坂を上がっていくと、高台の広場 "プラサ・アルタ" があって、昼間は大勢の人がここでお喋りしたり休憩したりしていて活気に満ちていた。この広場周辺が町の中心で、モロッコ人の姿もあまりない。さらに高台の斜面の住宅地が山の手といったとこだろう。ショップやバルの並ぶ町並が途切れ、道路を越えた外側に目新しい高層アパートが並ぶ新興地区がある。道路のこっち側にマクドナルド、新興地側にバーガーキングが、すぐ近くで向かい合っている。この二つの微妙な位置関係が地区の性質を表してるようだ。 港の券売窓口で切符を買い、朝10時のフェリーに乗り込む。オフシーズンで乗客は20人いるかどうか、かなり少なめだ。船が出てすぐ、モロッコの入国審査官がひとり現れ、客室のはじっこに用意されたテーブルで入国手続が始まった。「気をつけて」と英語で言ってくれ手続は穏やかに終了。 船はアルヘシラスを出て約1時間半で、対岸のタンジェの港に到着した。空はどんより曇っているのに日射しがまぶしくて、まともに前を見られない。「シェルタリング・スカイ」にたしかここ出てきたなあと思いながら眺める気持ちの余裕もなく、とりあえず港を出て町の方へ歩き出す。 すると一人の男が近づいて来た。英語で話しかけながらずっと私の横をついてくる。警戒心の塊になっていた私はひたすら無視。「港で働いてるんだ。ガイドじゃないから安心して。ほら、メディナはこっちだよ」と方向を教えてくれるが、私は新市街でホテルを探すつもりだったので反対方向に進み、彼には一人でメディナに行ってもらった。 太陽、車、風、砂埃、あとは人、人、人…とにかく人が多すぎる! メディナはどこも人だらけ、10歩に1回はコニチハ!サヨナラ!アリガト!と声がかかる。まぶしい上に風で砂埃が目に入って痛いので、サングラスをかけていると、ニイハオ、チーノ!というかけ声の割合が増えるのはなぜだろう。 足を止めるとわっと人が寄って来やしないか不安で、じっくり地図も見られない(そんなことで写真もなし)。排気ガスと砂埃がひどい。狭い通りに商店が建ち並ぶスークでは、ごった返す人と品物に圧し潰されそうだ。 カフェや食堂はどこもおっさんであふれ返っているし、どこでごはん食べたらいいのやら…。どこをどう歩いてたのか定かではない。どうしよどうしよ、とつぶやきながら、とにかくうろうろ。入りやすそうなサンドイッチ屋をついに見つけ、ようやく遅い昼食。 この日の夕方、ヨーロッパ風のカフェを見つけて入ったときほどほっとした時はなかった。メニューはフランス語とスペイン語。落ち着いて清潔感あふれる明るい店内は、旅行者か地元の女性客が多い。疲れて渇いた喉には、そこで飲んだオレンジジュースがめちゃめちゃうまく感じられた。結局、私がモロッコで一番おいしかったものは何かといえば、オレンジジュースだ。オレンジのそのままの搾り汁で、今までどの国で飲んだものより、凝縮された濃い味が詰まっていた。 それにしても、えらい国へ来てしまった。人混みの中にいる緊張だけで疲れ果て、こんな状態で一体これから先やっていけるのだろうか…という不安とともに初日終了。水はけに難あり、漆喰の壁とタイルの床がぺたぺたと冷たい安ホテルの一室で、眠りに落ちたのだった。 #
by achici
| 2006-04-20 23:12
| 旅
海を挟んで、アフリカ大陸の北端と向かい合うアルヘシラスの町へ。そこからバスで小1時間ほどでラ・リネアという所に着くが、バスターミナルからイギリス領ジブラルタルへは歩いて10分ほどだ。この辺りは英西の中立地帯で、ターリクという、海に突き出た特徴的な形の山を前方に見ながら道路を渡ると、車と歩行者とに分かれてパスポートコントロールがある。私のパスポートの刻印を見て淡々と、遠くから来たんだねえと言う係員。
国境から続く一本道 "Winston Churchill Road" を進むと、前方に車も人も行列が出来ている。道路と垂直に交差している滑走路から、今しもブリティッシュ・エアウェイズの飛行機が離陸しようとしているところだったのだ。踏切の前で待つ人の中には見送りの人もいて、飛び立とうとする飛行機に向かって大きく腕を広げ手を振っていた。週末に本国から家族か友人が訪問や里帰りに来たのだろうか。やがて踏切が開き、列はぞろぞろと前進。ひたすら、チャーチル・ロードを歩いて行く。あちこちに誰かれの銅像やら年号と事蹟を記したモニュメントやらが建っている。いちいち英国のこの地での確かな足跡を強調しようとしていることは明らか。それらを見るたびに気分がなえてくる。 "City Center→" の表示に従って細道を入る。と、そこは城塞の入口で、古びた跳ね橋がかかっている。今やその内と外に何の隔たりもないけれど、そこがこの地の防御の拠点だったことをうかがわせる。橋を渡りトンネルをくぐると、明るい大きな広場に出た。ターリク山が見下ろし、カフェやファーストフード店が取り囲む広場では、家族連れがのんびり憩い、子どもたちが走り回っている。 この広場を基点にして伸びているメイン・ロードを歩く。日曜日のため、いくつかのカフェ以外はほぼ閉まっていて、人通りの大半が観光客のようだ。通りには、ヘブライ語の看板とイスラエルの旗を掲げている店も目立つ。メイン・ロードと平行してアイリッシュ・タウンと名付けられた通りがあった。そこはいっそう人通りが少なく、メイン・ロードより町並は古く薄暗い。パブがあって、表の黒っぽいガラス越しに中を覗いてみると、客がいて営業中だった。しかし、メニューを出してるわけでもなく、わざと人目に付かないようにしてるとしか思えない。いちげんさん(観光客)は相手にしないような雰囲気。通りを一本違えただけの場所に、少し空気の違うアイリッシュのコミュニティが築かれている様子。 それだけでなく、ジュラバというモロッコ独特の服を着た老人も歩いているし、広場で遊ぶ子どもたちの中では、英語、スペイン語、アラビア語が飛び交っている(おそらくヘブライ語も)。ただ、イギリス人ぽい子どもはイギリス人ぽい子どもたちでグループになっているし、アラブ系の子どもはアラブ系の子ども同士遊んでいる。あたりまえなのかもしれないが、子どもでもやっぱり言語ごとにコミュニティがある。 ケーブルカーが休業中で山に登ることもできない。昼食のためにメイン・ロードのカフェの一つに入る。店内のTVではイングランドのサッカー中継が流れている。"Steak&Kidney Pie"(ポテト付き)というのを注文、世界的に有名なイギリス料理のまずさを堪能した。 ここで断っておくと、基本的に私は何かを食べて「まずい」と言うことはない。ふつう飲食可能なものを口にした場合の判断は「おいしい」か「おいしくない」かどっちかで、その他(キュウリとか虫のたぐいとか)は私の口に合わない/生理的に受け付けないから、その判断の基準外。だから、他人が「あれはまずい、これはまずかった」とたびたび言うのは、じつは理解できないのだ。 とにかく、私もこれは「まずい」と言うしかなかった。まあ、パイの味については納得の上のこととしましょう。問題は付け合わせ、ポテト・キャベツ・にんじん・グリンピース。どうしたらここまでげんなりした茹で方ができるのか教えてほしい。パイのソースをからめてみたが、ソース自体すでに絶望的でムダだった。さらに塩をかけてみたがもう、手の施しようがなかった。 入った店が特別だったのかもしれないが、そもそもこんなに身近にあるスペイン料理に、ここの食がその影響を受けていないのが不思議だ。実際、スペイン料理の店もあるのに。英国領とはいっても、ここの穏やかな気候と風土のせいか人々の生活はのんびりしているようだし、その点はラテン的に出来ているように見えるけれど。 スペインはジブラルタルの返還を求めており、一度は共同統治の方向に進みかけたものの、住民投票で拒否されたということだ。イギリスにとっては軍事的にぜひとも押さえておきたい要所だろうが、それ以外なんら発展的要素があるとは思えない。ただこのヨーロッパの南端で、かつて栄華をきわめた大英帝国の存在を誇示しておきたいという気持ちは伝わってくる。住民にしても、英国人の誇りを頼りにしてこの飛び地で暮らしているのではないか。 国境に面したスペイン側の道路沿いに、一つの銅像があった。自転車を引いた男がジブラルタルを見つめて立っている像で、台座に「ジブラルタルのために働くすべてのスペイン人労働者に捧げる」のようなことが記されていた。前方の英国領土を見つめるまなざしがうらめしそうに見えるが、その海の向こう側、モロッコの一部には、セウタとメリリャというスペインの領土があって、モロッコの返還要求を拒み続けている。どっちもどっちじゃないか。 #
by achici
| 2006-04-19 22:49
| 旅
2/3 Ronda 曇りときどき雨 朝、しとしとと雨が降っていた。この旅で初めての雨。ホテルは朝食付きで、声が異様にカラ元気な男が淹れてくれるカフェ・コン・レチェが、意外とおいしいカプチーノだ。天気が少しでも良くなってくれることを願って部屋で待つ。 昼まえ、とりあえずインターネット屋を探しに出る。ここ数日誰からもメールは来ておらず、私からもとくに書いていない。私以外は普通の、現実の生活を送ってるのだろうし、私も伝えなければいけないニュースがあるわけでもなく、所在地報告するのみ。 闘牛場脇の公園で、この町の断崖からふもとに広がる濃い緑の平原を眺望していたら、犬を散歩させている老人が話しかけてきた。寒いねえ、どこから来たの、などスペイン語で言っているので、言葉はわからないながら何度も聞き返したりして少し会話していたが、結局は半日はこの人と一緒にいることになり困惑した。 ここロンダは、二つの崖の上にある町が橋でつながれて出来ている奇妙な町なのだが、その橋を下から見る場所に案内してくれるというのでついて行った。彼の忠実で陽気な愛犬は、黒い縮れ毛をした小さな犬で、道中、ちょこまかちょこまか歩き回り、橋の欄干に身を乗り出しては谷底を眺めたり、よその家に勝手に入っていったりしている。 その後、私は闘牛場の中を見に行くと言うと老人は、いったん犬を家に置いて5分で戻るから闘牛場の前で待っていろと言う。その間、私は1時間以上も闘牛場を見学していたのにもかかわらず、出てきたらまだいた。彼をまこうとして長居した訳ではなく(さすがにもう待ってないだろうと期待はしたけど)それだけじっくり見る価値があったからだ。 ロンダは近代闘牛発祥の地だそうだ。闘牛は見たことがないけれど、誰もいない闘牛場の砂の上に、対面する闘牛士と怒り狂った牛との闘いと、それを包む観客の熱狂を想像してみることはできる。円形のアリーナを囲む柵はこの国の色、少し沈んだ色の赤と黄色に塗られ、観客席に立つ柱には優雅な浮彫が刻まれている。奥に牛を入れておく場所があり、ブルペンと書いてある。野球でよく聞くこの言葉、ここから来たのか。牛はおらず、裏の囲いの中に代わりに馬がいて、乗馬の練習中だった。伝統的な馬術学校があるらしい。そう言えば、ホテルの隣にも馬具屋があったなあ。 ゴヤのエッチングも展示されていた。説明によれば、ゴヤがそれらの絵を描いたのは、スペイン独立戦争後の不遇の時代。何もかも失った中で、若い頃の記憶を頼りにして描いたのだという。ロンダで名声を高めていた闘牛士ペドロ・ロメロとそのライバルの試合の様子が残されている。闘牛士のコスチュームの変遷も面白い。昔は牛角から身を守るためにバックスキンで作られていたのが、時代が下るにつれ、刺繍が施されたり縁飾りをつけたり、生地がベルベットやシルクになったり、エレガントさと華麗さを追求するものに変わってゆく。ほんとうは人と牛との血生臭い戦いの場であるのに、そこでも視覚的な様式美を完成しようとする人間。とはいっても、実際に見たわけではなくその興奮や熱狂は未知のものだけど。 またその老人に会ったところで観念して、一緒に昼食をとることに。昔はフランスで働いていたとかで、今は犬とふたり暮らしらしい。歳は58と言っていたが、いくら西洋人が老けて見えるとはいえ度が過ぎている。どう見ても10歳はサバを読んでいるだろう。明日はどうするのかと訊くので、アルヘシラスに行ってそこからモロッコに渡るのだと答えると、じいさん少し考えて、アルヘシラスには知り合いがいるから、わしも一緒に行こうと言い出すではないか。いえいえ、私一人で行きますから!と言うと、なぜ!?一人より二人の方が楽しいじゃないか、せっかく出会ったのに!と。そんな問答を繰り返して埒が明かなくなり、なんとか理由をつけてホテルに帰ることにした。それでも追いかけてくるのをなんとか振り払って戻ってきた次第。結局は昼食をごちそうになった末、逃げたという顛末なんだけれど、…まいりました。 夕方、恐る恐るもう一度散策に出てみたが、彼には会わなくてほっとした。公園に夕日を見に行ったけれど、厚く暗い雲の合間からかろうじてオレンジ色の影が照っている程度、うっすらとした広がらない寒々しい夕映え。残念。 #
by achici
| 2006-04-19 00:12
| 旅
グラナダ滞在3日目、あまりに単調な気分がやりきれなかったので、フラメンコを見に行くことにした。ペンションから申し込め、送迎付きなので楽ちんだし、夜遅くても安心だ。その夜のツアーは参加者計7名。その中にアルゼンチンから来た三姉妹と母親がいた。そのお母さん、真っ赤なショールに長い黒髪、ばっちり化粧で貫禄十分、はじめ店の人かダンサーの一人かと思った。
フラメンコを見る前に夜のアルバイシン(アルハンブラと向かい合う古い町並)を散策。若い女性ガイドが、スペイン語と英語(棒読み)で説明しながら、白壁の低い屋根の家が並ぶ、アルバイシンでももっとも古い地区を案内してくれる。 向かい合う家はそれぞれ、ドアや窓が正面に来ないよう互い違いに造られている。そうやって住民同士のプライバシーを守っていたのだって。また、ハマムのあった一画の勾配のある道は、石畳の真ん中に溝が走っている。その溝をハマムから出る水が流れていたというのが面白い。 街灯が照らし出す町並みを抜けると、アルハンブラを正面に見渡す展望台に出た。ライトアップされて浮かび上がる夜の宮殿、幻想的でめちゃめちゃ綺麗だった。カメラ持って来なかったのを悔やんだ。 午後11時になりタブラオに移動。ちょうど前の回が終わったところで、舞台を退けたばかりの汗だくのダンサーが、小学生ぐらいの男の子と話をしている。子どもは彼女の息子のようだった。始まる前から妙に生活感を感じてしまった。 いよいよショーが始まる。舞台上に8人、観客7人。私たち観客、数の上では負けていたが、こっちにはアルゼンチンのお母さんがいる。彼女は勢いでそのままステージに上がって行ってしまうんではないかと思うくらい、パフォーマーと一緒になって手拍子とかけ声を送っていた。 恰幅のいい男性歌手がゆるーく歌い、二人の脱力系ギター奏者の演奏に合わせて、4人の女性ダンサー、1人の男性ダンサーが踊る。とにかく、その4人の女性ダンサーの踊りに圧倒された。年齢順に若い人からソロで踊っていくが、彼女たちのそれぞれの踊りに、女性が歳を経るにつれてたどる変化が表現されているようで興味深かった。 若さがそのまま美しさである世代から、成熟を増すとともに体のボリュームも増して、女のにおいみたいなものが強く発せられていく。いくつもの苦悩の滲み出る時期を越えて、酸いも甘いも噛み分けた最後はもう、ある意味、女の悟りがすぐそこまで来ているような強さに達する。トリをとったいちばん年配の踊り手は、体つきも表情もひときわギュッと引き締まっており、揺るぎない所作でパッションを放散する、強烈な存在感だった。音・リズム・グルーブ、それらをぐんぐんに小柄な体にためて全身で感情込めて吐き出してゆく。 彼らの手拍子はそのまま楽器だった。ギターと声と掌を叩く音にダンサーの体は響応して、彼らみんなが音楽になっていて、とにかく素直に感動。 タブラオのあった一帯の丘はサクロモンテといって、そこには洞窟住居の跡がある。洞窟住居じたいはかなり古くからこの地(イタリアにもあるね)で見られるようだが、キリスト教徒によるグラナダ奪回後、イスラム教徒やユダヤ教徒が家を追われてこのサクロモンテに逃げ込み、住居を形成した。その後、ジプシー(ロマ)たちが住み着き、わりと最近までそこで生活が営まれていたらしい。一部は現在、博物館(サクロモンテ解説センター、Centro de Interpretación del Sacromonte)になっていて、彼らがどのような生活を送っていたかが再現されている。 フラメンコに代表されるアンダルシアの音楽や舞踊は、こうした場所で民衆の生活文化の中で育まれて出来たもので、そこにはいくつもの民族の文化が混じり合っている。インドが源流とされるジプシーが、西へと移動する道すがら運んできた各地の文化や、イスラム教徒が運んできたアラブ的・アジア的要素、ユダヤ、現地イベリア由来のもの等々、それはそのままアンダルシアの多民族ミクスチャーの歴史を象徴するかのようだ。 そういう、さまざまな要素を含む文化だからこそ、どんな人々の心にも共鳴する音色を持っている。アンダルシアにかぎらず世界中で、民衆は、生活を彩るものとして音楽や舞踊を愛してきたし、長い歴史の中でときには自民族だけでなく、他の民族のものも取り入れながら発展を繰り返してきた。そうやって出来た民族文化に触れたときには、遠く離れた場所の文化で育った私たちでも、意識の下に眠っている歴史の記憶の部分がくすぐられるのにちがいないと思う。 フラメンコのことなんて何も知らないまま目にした舞台だったけど、かなり楽しめたし見に来て良かった。これでなんとか、上向き調子で次の町へ足を進められそうな気分になった。 #
by achici
| 2006-04-18 03:36
| 旅
旅の間には、出合うものすべてに好奇心がわいたり感動したり、面白がったりできる日と、何を見てもただ目の前を通り過ぎていくだけで、頭のなかで何も反応していない日とがある。それはそのときの体調とか天候とかに左右されて起こるようで、また、大きい波と小さい波があって、なかなか自分ではいかんともしがたい。 「アルハンブラ宮殿に行ってみたい。」いつから私がそう思うようになったのか定かでない。少なくとも、スペインに行きたい、と思うよりも先にそう思っていた。ところが、アルハンブラ宮殿を訪れた日がまさに、その無感動の波の入口にさしかかったところだった。 いよいよ・とうとう・ついに、グラナダまでたどり着いて、念願のアルハンブラ宮殿にやって来たというのに。まあもともとあまり感情の起伏がないのは確かなのだけれど、そうなると自分でも、ああ、表情がなくなってきた、と感じる。 アルハンブラの中心、ナスル宮は、演出過多と思えるぐらいに部屋から部屋へ場面設定が施されていた。たとえば、水をたたえた池が鏡になって、映し出された館の姿をより大きく壮麗に見せるところとか、獅子の泉を中心に優雅な柱廊で囲まれたパティオの四方を、居室が取り囲んでいる様子だとか。 スタラクタイトと呼ばれる、鍾乳洞をずっと緻密にしたような装飾の星形ドームの天井は、ずっと見ていると気を失わんばかりだ。壁面を埋め尽くす漆喰の草花文様やアラビア文字、色あざやかなモザイクタイル、幾何学模様の透かし窓とそこから採り入れた光の装飾。 もちろんそれらの美しさとスケールの大きさにはすごいなあと思わずにはいられなかったけれど、それ以上の感慨が、なぜか得られないのだ。 あまりに寒すぎるから? 天気がさえないから? 観光客が多すぎるから? 今までに写真で想像をふくらませ過ぎた? それともむしろ「アルハンブラ物語」でも読んで、もっと想像ふくらませてくればよかった?「アルハンブラの思い出」ってどんな曲やっけ? 朝、アルハンブラ行きのバスに乗ったら、杖をついた老人が日本語で話しかけてきた。ギター弾きで、1967年に北海道から九州まで日本をずいぶんくまなく廻ったそうだ。バスを降りたところで彼は宮殿の入口を指し示してくれ、そこで別れた。ところが、ナスル宮に入る所でまた、その老人に会う。 日本語お上手ですねと言うと、うーん、日本語ムズカシイと言って笑う。ナスル宮を見たあと、アルカサバ(要塞)の方へ行く途中でまたまた会った。おそらく、そうやって人に出会うために、毎日ここまで来てるのだろうなあと思った。トモダチ!と言って、ずっと手を振っていた。 #
by achici
| 2006-04-15 16:34
| 旅
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