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プサンの町を歩いていると、日本人が植民地にしてた当時の名残りをあちこちに感じた。ナムポドンの中心、小高い丘の上にあるヨンドサン(龍頭山)公園に行く。そこには、壬辰倭乱(豊臣秀吉の侵攻)で活躍し戦士した李舜臣の巨大な銅像が、南方つまり日本を眺めて建っている。植民地下、この丘には日本人によって神社が建てられていたという。解放後、もちろん社や鳥居は撤去され、代わりに反日の英雄、抵抗の象徴として建立したのだろう。
近くにある釜山近代歴史館に入って、主に20世紀のプサンの発展についての資料を見る。多くが日帝時代、いかにこの地が開拓の名のもとに日本人によって変革され、収奪されていったかというものだった。そのせいで、産業関係の資料は日本語で書かれたものが多く、日本からの玄関口であるプサンの町で、日本人の経済活動の足跡を詳しく見ることができる。 もちろん、それにかかわっていたのは日本人だけでなく、有力な韓国人の事業家もいただろう。そういう人たちにとっては、日本が資本を投入し開発したおかげで朝鮮半島の近代化の基盤を作った、日帝時代にはいい側面もあったというような、日本人が考えがちな見方も受け入れられるかもしれない。今も活躍している関釜フェリーの航路はその頃に出来たものだし、満州侵略への道を通すために朝鮮半島の南から北まで鉄道が敷かれたのだから。ただ、そこには語られない負の歴史もある。 この歴史館、もとは東洋拓殖株式会社という、かつて日本人により朝鮮半島の農地開拓をおもにやっていた会社の建物を利用している。ここでフォーカスされていたのは、その会社でいかに韓国の小作農からの搾取が行われていたか、ということだった。 日本での食料生産と日本人低所得者の労働の場が、日本から朝鮮半島に移ってきて、元からいた韓国の低所得者とりわけ農民が、土地や労働の場を奪われたということ、そこから利益を得ていたのが東洋拓殖などの会社だったということ。ここでの展示の筋道としては、こうして労働の場を奪われた韓国の低所得者層の人びとは、日本が戦争へと突き進んでいくなかで、強制連行され過酷な労働を強いられたり、女性は「慰安婦」として戦地に送られたりした、ということになっていた。 自分は韓国人だというのに日本人と同じように徴兵され学徒動員されて戦争に参加、天皇のために死ねと言われる。 想像してみて、自分が納得も何もしないままに国の体制だけが北朝鮮のようになり、指導者を将軍様と呼んで崇拝せよと言われたり、国家から個人的な生活のあれこれを統制される、なんて耐えられるだろうか。でも日帝下の韓国・朝鮮人はそうせざるをえなかったし、内心どんなに辛く苦しいことでも従わなければ生きていけなかったのだ。 どうも韓国のことを考えると、歴史のことと今の極東情勢から離れることができない。町を歩いてるときはべつにそんなこと考えないし、読めない文字と原色いろとりどりの看板の洪水の中で、ただふらふらしてるのが楽しいんだけれど、韓国・朝鮮の歴史のことはもっと知らないとな、と思った。それからでないと、私の頭は整理できない。 プサンの東萊温泉で、古い映画のポスターを見つけた。ハングルが読めないのでタイトルわかりません。この映画の製作者、申相玉 (シン・サンオク) となっている。この人は1978年に、妻であり女優の崔銀姫 (チェ・ウニ、出演者のところに彼女の名前も見える) とともに、香港滞在中に北朝鮮によって拉致された映画監督(その後、脱北しアメリカに亡命したとか)。だからこの映画の製作年は、1970年代前半よりは前ということか。それにしても学生服の男、老けてますな。 下のも同じ建物で。ここは名画座なのかもしれない。日本では見かけなくなりましたね、映画の絵看板。主役の男、私には渡辺いっけいに見えるが、さてこれ、どんな映画なんだろうなあ。サスペンス? 囲みの中の男がナゾ。製作年代もよくわかりません。
by achici
| 2006-07-11 22:33
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